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三浦徹氏 My Story (vol1.)

日本でユーフォニアムを広め、演奏水準の向上に多大な貢献をされているユーフォニアム奏者三浦徹氏。その経歴やユーフォニアムの魅力、また愛奏する〈ベッソン〉の楽器について伺ったお話を、2回の記事にまとめました。(取材:木幡一誠)
※ 本ページは前半部分です。記事後半はこちらからお読みください。


ユーフォニアム、そして〈ベッソン〉との出会い

  ユーフォニアムとの出会いからお話しいただけますか。
三浦(敬称略) 1961年の9月です。私は大阪の中高一貫の男子校におりまして、中学校の1年生でした。創部80周年の歴史を持つ音楽部で、「吹奏楽」という和製漢字が使われる前から活動していました。関西では阪急少年音楽隊や大阪市音楽団などもそうですね。そこで出会ったわけですが、まだユーフォニアムではなく小バスやバリトンと呼ばれていて、変な名前だな……と子供心に思ったものです。
私は遅れて入部しましてね。その頃は動物学にも興味があり、将来の仕事として獣医なども頭にあったものですから、入学した頃は生物部に入りたいと思っていました。しかし顧問の先生の都合で実質的に休部続き。それで音楽部の友人に誘われるまま、遊びに行ったのがきっかけです。余っていた楽器が他にないというので「これでも吹いとき!」と渡されたのがユーフォニアム(笑)
当時の関西では天理高校や天王寺商業が吹奏楽の名門で、私たちの学校は万年2位で全国大会には出られないというレベルではありましたが、そこに交じって見聞きしたことが、後の自分に結びついたと実感しています。指揮者の朝比奈隆、阪急少年音楽隊の鈴木竹男、今津中学校の得津武史、天理高校の矢野清……、こういった先生がたに直接お世話になって、素晴らしい内容のことを教わりました。純正調なんて言葉も知らないうちから、長調の第三音は低めに音程をとると美しく響くとか。関西圏の吹奏楽のレベルの高さを支えていた指導者の層が厚かったと思います。そんな偉い人たちから「これ聴きや! こんどこんなのが来るから!」と教えられたりしながら、中学校3年生のときはロンドン交響楽団をフェスティバルホールで聴きましたし、同じホールでイギリスの金管バンドや、グレン・ミラー楽団なども。ある意味、当時は関西圏のほうがその種の出会いで恵まれていたかもしれません。

  音楽家を志したのはいつごろなのでしょう。
三浦 高校1年のときです。ちょうど東京オリンピックの年。当時の日本人は元気がよかったですね。頑張って努力すれば何かできるという機運が世の中全体にありました。それも刺激になったと思います。音楽部の先輩にもオーケストラの楽団員や音大の先生になった方がいらした。その先輩たちが東京をめざしていた姿に影響を受けまして、自分も続こうと。しかしひとつ問題があって、ユーフォニアムはオーケストラにポジションがないから、よく考えたほうがよいと常に言われたものです。そうこうするうち受験の準備になり、楽器が必要になります。今はみんな問題なく手に入れますが、当時は私の先輩にしても、たとえばテューバなら学校の楽器を借りて東京まで入学試験に行くわけです。地方の学生ならマウスピースだけ持って行き、受験する学校の楽器を借りたりします。今では考えられないでしょう? ずいぶん悩みました。東京へ行って、大石清という芸大の先生に相談しましたところ、「楽器は個人持ちにしたほうがいいよ」とおっしゃる。自分で楽器を手にいれる決心をしたのは先生のアドバイスです。
昭和40年の12月でした。大阪の心斎橋の日本楽器、ヤマハですね。そこに1本のユーフォニアムが置いてありました。〈ベッソン〉です。今も大事に使っていますが、それが袋の中に入っていて、開封もされていません。もう厳重に閉じられていて、こちらは見るだけ。それをジーっと眺めていると、偉い店員さんに「シッシッ!」と追い払われそうになったりしました(笑)。
私はおそらく日本で初めて、ユーフォニアムを個人持ちで買った人間なんです。ビュッフェ・クランポンさんよりも早く〈ベッソン〉と、ブージー&ホークスとご縁ができたのですね。その前の年に東京芸大、そして大阪市音楽団も購入していますが、その次が私です。父が商売をやっていて比較的余裕があった家とはいえ、本当に親には感謝しています。当時でかなりの値段がしました。もう1本フランスのクェノンも置いてあり、そちらは3分の1以下の額とかなりの開きがあります。その話をしたら大石先生が「迷わず〈ベッソン〉にしなさい!」と一言。良い楽器の出会いは、つまりそれが今日にまでつながる。実際、人生を変えたわけですからね。

自分自身で課題を模索した学生時代

  その〈ベッソン〉を手に東京藝術大学を受験された。
三浦 大石先生のクラスで、バリトン専攻という肩書きです。私たちの世代がお世話になった先生はとても素晴らしい方々でしたが、外国で習って帰ってきた人は金管楽器の場合ほとんどいなかったですね。ホルンの千葉馨先生がデニス・ブレインのところにいらしていたくらいで。そしてユーフォニアムには専門家がいない状態でした。この楽器でプロをめざすとなれば、自分が外国に行かねばならないという思いを抱くようになります。
その頃ですとフルブライト留学制度というのがありまして、サクソフォンですと大室勇一先生……、若くして亡くなられましたが、先生がフルブライトの留学生としてイーストマン音楽学校やノースウェスタン大学で学ばれ、教授法をしっかりと身につけて帰国されていました。今の日本のサクソフォン奏者が活躍する素地を作ったのは大室さんですし、他にも阪口新さんという偉大な先生もいらして、サクソフォンはずいぶんと先を歩んでいたと思います。それに対してユーフォニアムは教授法すら存在しない時代で、そもそも曲がありません。ゴードン・ジェイコブのファンタジア(1969)やジョゼフ・ホロヴィッツの協奏曲(1972)など、代表的なオリジナル作品が生まれるのはもう少し後のことです。芸大ではもちろんユーフォアムの同級生もいませんし、他の楽器の友人や先輩の叱咤激励の中、自分で自分の課題を模索していく必要にかられます。ホルンには名曲があっていいなあ……、などと羨ましがりながら(笑)。
そこで私は、まず1年生のときの試験はクレストンのサクソフォン・ソナタの第3楽章を演奏しました。2年生ではウェーバーのバスーン協奏曲の3楽章。3年生ではライヒャのトロンボーン協奏曲の第2・第3楽章、4年生の前期はブラゼヴィッチのトロンボーン協奏曲の第2・第3楽章。そして卒業試験ではヴォーン=ウィリアムズのテューバ協奏曲を演奏し、最優秀をいただいて卒業できました。ユーフォニアムに曲がない以上、他の楽器から適当なものを見出すわけです。そしてたとえばクレストンを吹くとなれば彼の著書「リズムの原理」を読まねばなりません。マリンバの教室を訪ねては「クレストンのマリンバ協奏曲はどんな原理で書いてあるの?」と勉強したり、作曲科の先生に譜面を見せては、「三浦くん、これ2拍子で書いてあるけど実際は5拍子だね……」などと教わったりして、アナリーゼも同時に学ぶことができました。
こうやって改めてお話すると、とてもお恥ずかしい、何をやっていたのと思われそうな時代です。しかしそこで勉強した、音楽を学び、楽譜を読み、音を聴き、考えて演奏し、どういう音楽をすればお客さんを喜ばせ、ひいては人の役に立てるのか……ということ。これは音楽家の基礎に他なりませんし、自分の生徒にも求めます。ただ、残念ながら、自分の楽器の専門家に「ここはこう吹きなさい」と習うことは、日本の大学時代には経験できなかった。今の学生たちを見ていると本当に羨ましく思います。芸大を出てすぐにアメリカに留学したのは、そんな背景もあってのことです。

アメリカで学んだ「エチュードの体系」

  留学先はどのようにしてお探しに?
三浦 アメリカではレイモンド・ヤング先生に師事しました。恩師との出会いは、銀座の山野楽器で見つけた一枚のLPレコードです。ユーフォニアムのレコードを見つけるなんて、当時からすれば奇遇もいいところですよね。それを吹奏楽の指導と研究者として知られる秋山紀夫先生のところへ持って行ったら、南ミシシッピー大学でユーフォニアムとバンドを指導されている人だ、と調べてくださった。私が渡米した当時、ヤング先生はバンドの指導者としても評価が高かったですね。アメリカでは教育の一環として吹奏楽の授業が組まれ、小中高の先生はもちろん、音大の教授に至るまで、自分の楽器を教えるかたわらバンドの指導にあたる方が大勢います。
ユーフォニアムのレッスンでヤング先生から学んだことは、まずエチュードの種類です。日本では金管だったらアーバン、これは総合的な教本として受験生のときにやる。大学に入ってからはブルームのテクニカル・スタディ。その程度です。教本は1つあればよいという考え方で、それから実践の曲に入る。ヤング先生から教わったのは、まずロッシュのメロディアス・エチュード。そしてテクニックを磨くものとして、クラークのテクニカル・スタディーズ。さらにもう1つ、クレフ・スタディーズ。これは楽譜の読み方の鍛錬で、1つの課題の中にト音記号もヘ音記号もあれば、テナー記号も同時に出てくるものです。用途に分かれたエチュードを系統立てて使い分けることを学びました。
これは大事なんです。その昔、日本の洋楽黎明期にベートーヴェンからチャイコフスキーからなんでも弾けた天才的なピアニストがいましたが、ドイツの学校ではピアノ専攻で受け入れられなかった。指順が違う、と指摘されたりしたそうです。つまりバイエル、ツェルニー、ブルグミュラー……と段階を追った練習を積んでいなかった世代でした。きちんと系統だったテクニックを身につけていないことは、聴く人が聴くと見破られてしまう。
そんなエチュードの考え方をヤング先生に示していただいた。アメリカから帰ってきた私が、ロッシュを初めて日本に紹介しました。「これはいいねえ、歌い方の練習になるねえ!」と周囲からも喜ばれました。レガートのかけ方に関して、特にユーフォニアムやトロンボーンやテューバのような低音金管楽器は図体が大きいので難しい。そのためにイタリアのボルドーニのヴォカリーズに基づいて編まれた、ロッシュのメロディアス・エチュードが役立つ。上級者が学ぶテクニカル・スタディーズの系統は、現在ではコプラッシュに統一されてきています。エチュードやデイリー・エクササイズに関して、フルートでマルセル・モイーズが整備した一連の体系に比べれば、金管はまだまだという感じでもありますが、だいたい出揃ってきたとはいえます。それをみんなが使えるように、どんな先生についても系統だった学習ができるとなれば、フルートのように底辺が充実してくるのではないかと思いますね。

「五感」を使って音楽すること

  留学先のアメリカではイーストマン音楽学校でも研鑽を積まれました。
三浦 1971年の9月に渡米しまして、当初は2年間の留学予定でした。そこでユーフォニアム、そして吹奏楽の指導法を身につけて帰国しようと。しかしその2年が3年になりましてね。良い先生にたくさんめぐり会い、もっとこれを勉強しなさい!と激励もされて、大学院まで出ることになりました。
イーストマンはアメリカの音楽学校でも管打楽器に関してはトップの水準です。日本の音楽大学ですと、吹奏楽のカリキュラムを授業に組み込めません。他の科目が多すぎて、どこの学校も簡単にはいかないんです。その点、イーストマンには歴史があります。フレデリック・フェネル先生が、吹奏楽をどうこうするというのとは別の発想で、ご自分の理念を追求できる場を求めた。それがハワード・ハンソン学長のもとで1952年のウインド・アンサンブル設立に結びつき、実践の場となったわけです。
ウインド・アンサンブルは各パート1人の原則で、クラリネットのみ例外的に3パートが各2本ずつとダブりがあったりします。これがいわゆるシンフォニック・バンドですと響きに豊かさが出る反面、演奏者各人のエクスプレッションが弱くなりますよね。それとは逆に、オーケストラの管楽器セクションの合奏に通じる、明瞭な色彩感が大きな特徴です。しかし既存の曲がないので、フェネルも作曲家に理念を理解してもらうのに最初は大変苦労したそうです。そうこうするうち、委嘱新作が登場し始めたのは1953年。フェネルは1962年までイーストマンの指揮者をつとめましたが、レコーディングでとりあげた曲が現在もアメリカでは吹奏楽のベーシックなものとして定着しています。

  そのメンバーとして演奏に加わった経験も大きな財産だった。
三浦 トランペットの1番はアレン・ヴィズッティ、2番がクリス・ゲッカーで、打楽器にゴードン・スタウト、リー・ハワード・スティーヴンス……、名前を挙げたら現在ではもうみんなが第一人者で、彼らが無名の学生時代に一緒に勉強できたわけですからねえ。それも一緒の寮で過ごしながら。音を出しての印象は、一言でいって澄んでいる。ピュアでクリーンなサウンドです。そして当時も今も、学生の意識が非常に高い。
私が教鞭をとっている大学の学生を連れて行ってイーストマンの学生と交流の場を持ったとき、何を感じたかというと、それは「五感」の違いですね。日本の学生は五感を使っていない。ブリンカーってわかりますか? 競走馬が周囲に気を取られないよう、視界を狭めるため目の周りにつける道具。心にブリンカーをつけているような感じです。大学の授業でもよく比喩に使いますが、今の生徒たちには「孤独のラーメン屋」のほうがわかりやすいかな(笑)。カウンターに1人1人のスペースの仕切り板があって、女性でも気後れせずに入れる店。まるでそんなカウンターに座って吹いているみたいで、集中力があっても、どこか空虚なものでしかない。
本来なら、指揮も見る、隣と連携もできる、楽譜も見られる……。集中力はそう発揮されるべきものでしょう。イーストマンの学生はみんなそれができている。1番吹きは何をするか、そこで2番吹きはどうするか。1番トランペットにホルンもトロンボーンも寄り添い、あるいはテューバの上に音をこういう風に重ねていって、ハーモニーをブーンと響かせる。それは五感の賜物ですよね。
話が飛びますが、日本の吹奏楽コンクールの弊害もそんなところに感じます。練習に練習を重ねて最終的に形が作れるということを仮に信じていたとしても、1人1人の五感と意識が関与しないままでは、ただの動物の調教と似たものに終わってしまいます。私が留学していたときのイーストマン・ウインド・アンサンブルの指揮者、ドナルド・ハンスバーガー先生から教わったことは、改めてそういう意味のことだったとかみしめています。五感が働いて、楽譜が読めて、自分の力で音楽ができるのではなく、先輩や先生に叩かれながら形になっているだけでは……。僕の言い方は極端に映るかもしれませんが、思うに吹奏楽はヨーロッパでは立派な文化、アメリカでは教育の一環、しかし日本では、ただ単に盛んな現象……(笑)、英語で“prosperous phenomenon”といえばカッコいいですが、社会の中では、好きなもの同士が集まって自分たちの輪の中で掘り下げているだけの現象でしかない。コンクールで金賞をとるための曲が増産され、それがビジネスとしてまわることで潤っている。これは厳しい見方ですが、決して悪い面だけでもないです。たとえば楽器が、クラリネットならクラリネットが売れることにもなります。しかしその楽器も、〈ビュッフェ・クランポン〉でないとこの音色が出せない!というような、文化に根ざした普及の仕方でないと、つまらないですよね。つまり歴史に残る作品があって、楽器があって、奏者があって、初めて実りのある音楽という芸術行為になる。そんな自分の考え方の源を作ってくれたのがイーストマンだったと思います。

後半につづく

※ 三浦氏が使用している楽器の紹介ページは以下をご覧ください。
〈ベッソン〉ユーフォニアム”プレスティージュ

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